清和の窓から

2024.07.12

理事長コラム「清和の窓から」95 益川敏英さんの思い出

益川敏英さんの思い出

 

前回の「小柴昌俊さん」に続いて、今回はノーベル物理学賞の益川敏英さんのこと。私も通ったことのある唐津の民間塾「からつ塾」の講師としてお招きした。2010年2月のことです。ちなみに「からつ塾」は今も活動していて、私も以前に何度か講義をしたことがあります。

 

1940年生まれの益川さん。父一郎さんは腕のいい家具職人だった。名古屋で小さな家具工場を経営していたそうだ。しかし、戦争が激しくなり工場をたたむことに。一郎さんは、その腕を見込まれ戦闘機用の木製燃料タンクを作る仕事をしていた時もあったらしい。とにかくいろんな仕事で家族を支えた。益川さんが高校生のころは砂糖販売が家業となっていたそうです。

一郎さんは、そのころの誰もがそうだったように尋常高等小学校しか出ていない。だが、勉強好きで物知りだった。本当は家具職人ではなく電気技術者になりたかったそうだが、家の事情が許さなかった。

益川さんが高校を卒業する時、父一郎さんは「家業を継げ」と言ったが、益川さんはそれが嫌で大学へ。大学院にも進んだ。でも一郎さんは益川さんの進学に対して一番の理解者だったという。
幼いころの父と子の思い出。近くの銭湯には必ず父子一緒に。一郎さんは湯船につかりながら、まだ小学生だった息子、益川さんにいろんなことを教えた。学校では習わない難しいことを。いつしか益川さんも友達の中では抜きんでて物知りになった。この父と子の“銭湯講座”が偉大な物理学者・益川敏英の原点といえようか。

2008年のノーベル賞受賞スピーチで「私は英語を話せません」と堂々と日本語でスピーチした益川さん。この愛すべき益川さんに「忙しい毎日でしょう」と話を向けたら、益川さんは「時間がないなんて言う人がいるけど、誰でも時間はいっぱいあるんだよ。勉強と恋愛の両立なんてできないなんて、そうじゃない、もっと勉強したくなるような恋愛をすればいいんだ」

実に明快で、面白い。益川さんは高校1年の時、後に恩師となる名古屋大学の坂田昌一博士(故人)に触れ、「自分も名大に入り、この先生と一緒に研究できたらどんなにいいだろう」とひそかに思ったという。偉大な人に、恩師有りである。

小柴、益川という人間味豊かな二人の博士のエピソードはいかがでしたか!

理事長 富吉賢太郎


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