清和の窓から
2024.08.22
理事長コラム「清和の窓から」97 愛と溺愛、保護と過保護
愛と溺愛、保護と過保護
生まれたれたばかりの猫の赤ちゃん。その片方の目に眼帯をかけて育てると、その目は数週間で失明するらしい。そんな実験について書いていた雑誌を読んだ記憶がある。専門的な知識は全くないが、生きものの育ちに必要な愛情と、それが過ぎた溺愛のもたらす結果、言い換えれば保護と過保護の違いを子猫の実験で例えたのであろう。
つまり、眼帯は光という刺激を目から守る保護膜になる一方で、時と場合によって、それは永遠に子猫から光を奪ってしまう、余計な保護膜となる場合もある-ということを、より繊細な人間の赤ちゃんの育ちにも当てはめて警鐘を鳴らしていたのである。子猫の失明は余計な保護膜によるもので、過保護の怖さと言っていい。
わが子は誰でもかわいい。でも、かわいさ余って何でも保護してやっていると、正常な喜・怒・哀・楽の感情発達が阻まれることも。極端な溺愛は、素直な子どもの心根をいつしかむしばみ、歪めてしまうかも知れない。子どもの育ちの難しさと繊細さ。子どもがバランス良く育っていくためには、その時々に必要な刺激があるはず。暑かったり、寒かったり。石ころにつまずいて、痛かったり。また、これは必要な刺激とは言わないが、生きている生身の人間だもの、嫌なことだってあるかもしれない。その時、どんな言葉で、どんな態度で、どう守ってやるか、やれるか。
事ほどさように、子どもに注ぐ愛情の加減は実に難しいが、「人の育ちには三分の凍えと三分の飢えである」という貝原益軒の言葉がある。
令和の時代ではなかなか実感できない「凍え」と「飢え」と言う言葉で、江戸の偉大な儒学者は、次世代を担う子どもたちへの接し方を教えてくれていると思いませんか!
理事長 富吉賢太郎