清和の窓から

2024.07.01

「清和の窓から」No.94 小柴昌俊さんの思い出

日本で初めてのノーベル賞受賞者は1949年受賞の湯川秀樹さん。それから現在まで31人(日本国籍を持つ人)だそうですが、直接会って話をお聞きしたのは物理学賞の小柴昌俊さんと益川敏英さんの二人。偉大な博士たちに聞いたとっておきのエピソード。今回は小柴昌俊さんのこと。

 

ノーベル物理学賞受賞者小柴さん。ちょうど20年前、佐賀新聞創刊120周年記念講演会の講師としてお招きした時、福岡空港から佐賀まで約一時間、相乗りの車の中でじかにお話をする光栄に浴した。その時、小柴さんは77歳。「私は足が不自由だから、車で迎えにきてもらえたら」ということで空港まで迎えに。そして、車の中で子どものころの話しを・・・・。

1926年生まれの小柴さん。子どものころの夢は軍人か音楽家になることだった。時代が時代だから、当時エリートだった軍人になることは両親や周囲の期待にこたえることでもあったのだ。ところが中学1年の秋、ポリオ(小児まひ)にかかって両足が動かなくなり、目の前が真っ暗になった。

小柴さんは、夢をあきらめ、めいる気持ちをどう克服していったのか。

挫折の苦しさから逃げ出そうとは思わなかったのですか?と問うと、「いや、そんなことはない」と。小柴さんは「だって、小児麻痺、病気は自分ではどうしようもないでしょ。どうしようもないことをくよくよ考えるたちではないんです」

気持ちを切り替え、療養しながら模型飛行機屋にでもなろう―と考えたという。「模型屋なら店に座って飛行機を作りながら、学校帰りの子どもたちを待ってるだけでしょ」

ところが、学校行かないで模型つくりばかりだと面白くない。「やっぱり、学校に行こう」。でも家には、学校まで送っていってくれるようなやさしい父はいない。もちろん自家用車もないから、「学校行きたいなら、自分で行きなさい」

ということで、小柴さんは片道3キロの道を不自由な足を引きずり、時には手を使って、はうようにして学校に通った。小柴さんは「それは大変だったが、これがいいトレーニングになって足がだんだん使えるようになったし、体を支えた腕がものすごく強くなったんだよ」と笑った。
小柴さんのモットーは「やれば、できる」。軍人への道が閉ざされた結果、物理の世界で大輪を咲かせた小柴さん。忍耐強く、豪快な愛すべき小柴さんから、学ぶこと多し。小柴さんだけではない。みんな、「やれば、できる」ですよ。

理事長 富吉賢太郎


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