清和の窓から

2021.04.15

No.40  本を読むこととは・・・・

新学期。中学と高校の新入生も仲間に加わり、学園の雰囲気も明るくなった気がします。みんな仲良く、それぞれ、新しい気持ちで学園生活をスタートさせてください。

と、言うことで今回は私の学生時代のことを少し紹介しながら、読書の大切さみたいな話をしようと思います。いつもとは少し長くなりますが、気分転換の気持ちで勉強の合間にでも読んでください。

私が大学に入学したのは1968年ですから、今から53年前です。全国に学園紛争が吹き荒れていた時代。東京の大学はどこもかしこも、勉強どころではない騒動の真っ只中。翌年は、安田講堂を全共闘が占拠、東大入試がなかったころで、学生デモ隊と警察機動隊のぶつかりはしょっちゅう。大学に行っても、校舎の壁には「造反有理」「反帝反修」「学園民主化」などとペンキで書き殴った文字があふれ、大きなタテカン(立て看板)の前で、ヘルメットとタオルで顔を覆った先輩学生がマイクを持って、いつもアジって(アジテーション=扇動、大衆を行動にあおり立てる演説)いました。

4月に入学して、わずか2カ月で大学はロックアウト。信じられないでしょうが、それから授業再開まで1年以上かかりました。クラスの仲間の顔も名前も覚えきれないような状態で、そのまま大学を退学した者もいました。

名曲「イチゴ白書をもう一度」の世界じゃないですが、学生集会やデモにも参加しましたが、親から仕送りを受けている身で、これでいいのかと自問しながら、神田の古本屋と池袋の名画座通いで気持ちを落ち着けていたような気がします。当時、親からの仕送りが2万5千円。部屋代7500円で月1万7500円の生活。銭湯が35円の時代でした。

学生はみんな貧しく、かつかつの生活でしたから、まったく惨めな気持ちはなく、むしろ田舎から送ってきた白米がたっぷりあったから、カネがなくて腹を減らした友達が「富吉の所に行けば飯だけは食える」とよく転がり込んで来ていました。今も未解決の三億円強奪事件や三島由紀夫の割腹自殺をリアルに体験したのも大学時代です。

そんな大学生活のスタートでしたが、本代だけは惜しまなかった気がします。生活費の大半を本代に使ってしまい、次の仕送りの現金書留が届くのをじっと待つこともありました。当時買った本で、どうしても手放せず、今も本棚にあるのがフランスのノーベル賞作家ロジェ・マルタン・デュ・ガールの『チボー家の人々』(全7巻)とカール・マルクスの『資本論』(全3巻)

先日、ある雑誌に作家の宮本輝(同じ団塊の世代)さんが、こんなことを吐露しておられた。

「大学受験に失敗して、大阪・中之島図書館に通いつめ毎日、むさぼるように本を読んだ。一種の逃避で、とうてい褒められた行動ではないが、ただ、あの時期に濫読した文学が、すべて今の自分の血肉になっている。決して後々、役に立つなどと読んでいたのではないが・・」

宮本さんはトルストイの長編『復活』を悪戦苦闘しながら3カ月かけて読んだ。今はもう細部は忘れているが、それでも『復活』から吸収した大切な何かがしっかり自分に残っていると感じるそうで、宮本さんは「読書というものはそういうもので、何かの役に立ったということを基準に価値が決まるものではない」と言い、たとえ表面的には何の役にもたたなかったとしても、見えない部分で人間に深みを与えていくものだと、昨今の読書離れを憂い、読書を勧めている。

宮本さんの最新作『灯台からの響き』(集英社)の中で、主人公が友人から「お前と話しているとちっとも面白くない。お前には何もないんだよ。その理由を教えてやるよ。読書なんかしたことないだろう。だからお前は人間の中身がカスカスなんだよ」と罵倒されるシーンを入れている。そして、その言葉にショックを受けた主人公がものすごい読書家に変わっていく・・。

長くなりました。「読書、本を読む・・・。ふーん、そういうものか」と皆さんが思ってくれるだけでいいのです。

理事長 富吉賢太郎

2021.04.15

 


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