清和の窓から
No.66「いじめ」について考えてみた!
新聞社時代、ある人からこんな話を聞いたことがある。
「いじめは子ども社会をむしばむ“がん細胞”みたいなもの。どこの学校でも例外なく各クラスに潜み、暴れるチャンスを狙っている。でも、ちょっとした気づき、心がけで退治できる」
koこの人が確信を持ってそう言えるのは、息子さんへのいじめと本気で向き合った経験があったからだ。「いじめは早期に発見し、教師(学校)と家庭の真剣な連携があれば救えるのだが、99%が末期まで放置されることがある。“注意します”といった生半可な治療では症状を悪化させるだけ。本気になることが一番です」との信念をもっておられた。
この人が、わが子のいじめに気がついたのは、息子さんが中学になって間もなくのことだった。明るく元気なわが子の顔から日に日に生気が吸い取られていく。力づくの暴力ではないが、からかいや無視といった捉えようのないいじめの持つエネルギーの恐ろしさに体が震えた。そんな時、校長先生が「いじめは学校の責任です」と手をにぎってくれたことが救いだったそうだ。「校長先生の本気が見え、いじめは耐えるしかないと思っていた息子にとって神様のような存在でした。どれだけ心強かったか」
koこの話を聞いて、その校長先生を訪ねた。
koそこで一枚の色紙を拝見した。中学の卒業生たちが校長先生に贈った寄せ書きである。そこに「神様みたいな校長先生。いじめをなくしてくれてありがとう」と書かれているのを見てジーンとくるものがあった。
ko話によると、以前ある中学に赴任して間もないある日、一人の女子生徒がくしゃくしゃにした一枚のメモを手に押し込んで走り去った。名前は分からなかったが名札のクラスだけが目に入った。メモには「これ以上いじめられたら死ぬしかありません」。これは命にかかわる問題だと思った校長先生は次の時間、そのクラスに行って、自分が子どものころいじめられて苦しかったことから話し出した。また、「学校なんて大嫌い。みんなで命を削っていることに気がつかないから。先生はもっと嫌い。弱った心を踏みにじるから」と書き残したある少女の手紙も紹介した。いろいろ話をして、気が付いたら一人の女の子がうつむいて涙をこぼしていた。机の上が水をこぼしたようにぬれている。校長先生は「この子だ」と直感、みんなを諭した。
ko気の合う人、合わない人がいること自体は普通のこと。それ自体はどうしようもないことを前提に、他意はなくても人を嫌な気持ちにさせることがあること。何気ない言葉や仕草が人を傷つけたり、追い詰めたりすることもあること。そんな話を聞いて、みんなが自分のしていることに気がついた。そして、これがきっかけで、生徒会の「いじめ追放宣言」につながったそうだ。
ko繰り返しになるが、人間には誰でも気の合う人と、そうでもない人が出てくることがある。これは生きていくうえでの試練と言ってもいいが、その時、どう自分をどうコントロールできるかが、その人の価値を決めるといってもいい。気の合う人はいいが、そうでない者は排除したいと思ってしまう。その異質排除の感情が先鋭になったのがいじめなのです。最悪なのは周りを巻き込んで徒党を組み、特定の人をよってたかって除け者にすること。人は多数派になると往々にして罪の意識が希薄になってくるからです。しかし、人をいじめて今はルンルンでも、いつか必ずその報いが自分に返ってきて苦しむことになることを知るべきです。
koどんな理由があろうとも、いじめなどもってのほか。そこに気がついたら自分の言動を見直し、反省する。それができる人にならなくては!。そして今、もし、クラスで誰かが暗い顔をしていたら、やさしく声をかけてやる勇気を持ってほしいのです。
ko考えてみたら、中高生は生まれてまだ10数年です。人生はこれからという時に、卑劣ないじめの加害者などには絶対になってはいけません。そんな情けない、恥ずかしいことはありません。尊いのは、誰とでも仲良くできる人になることです。
kokkokokookokokokokokokokokokokokokokokokokokokokokokokokokokoko理事長 富吉賢太郎