清和の窓から
No,90 『私が先生になった時』
新年度が始まりました。こんな話はどうでしょう!
「私が先生になった時/自分が理想を持たないで/子どもたちに/どうして夢が語れるか」「私が先生になった時/自分がスクラムの外にいて/子ども達に/仲良くしろと言えるのか」
この詩は、岩手・花巻農学校の教壇に立ったことのある宮沢賢治が、教師として、その喜びと決意を示した教訓の詩-と思っていた。ところが、ある人から、「これは宮沢賢治の詩だとよく言われていますが、そうじゃないという研究があるのをご存じですか?」と指摘されたことがある。当時、佐賀県内で先生たちの飲酒運転、スピード違反など交通不祥事が相次いでいたので、先生たちへの戒めのつもりで、この詩を紹介した時のこと。
その人によれば賢治が生前発表した作品はもとより、今に残るあらゆるメモ、草稿からはこの詩は見つかっていないという。それがなぜ賢治の作品となって伝わってきたかは分からないが、確かに「新英語教育」(三友社・1985年4月号)などは「作者不詳」として扱っていた。
その人の指摘はなおも鋭かった。この詩を交通違反で処分される先生たちの反省を願って引用したのだが、その人は「職業は関係ないんじゃないですか。飲酒、無免許は先生でなくてもしてはいけないのです。職業観に引きずられると思いがけない偏見や差別を生むことがありますよ」
確かに、安易な先入観は自戒しなければならないが、ここでは、『私が先生になった時』そのものをかみしめてみよう。
「私が先生になった時/自分が未来から目をそむけて/子ども達に/明日のことが語れるか」「私が先生になった時/自分に誇りを持たないで/子ども達に/胸を張れと言えるのか」
この詩は賢治の理想、覚悟かも知れないし、そうでないかもしれない。でも、作者が誰であったとしても、この詩の呼びかけに先生と子どもたちが一緒に耳を澄ましてほしいのです。さあ、いよいよ新学期。夢膨らませた新しいクラスの子どもたちが目の前に・・・。
理事長 富吉賢太郎