清和の窓から
No.91 郡長正、知ってますか?
「理事長、話が古るぎます!」と言う声が聞こえてきそうですが、懲りずに書いてます。皆さんも、飽きないで読んでください。「ふふん、そうか!」と思うだけでいいのです。と、言うことで、今回は、皆さんたちと同じ年ごろの少年の話です。と言っても150年も前から伝わるエピソードですが・・・。
福岡県東部にある豊津町。現在は勝山、犀川町と合併して住所表記は「みやこ町」になっていますが、この町に郡長正(こおり・ながまさ)(1856―71年)という、16歳で切腹して果てた少年の墓があります。
長正は、会津藩家老、萱野権兵衛の二男。14歳の時、藩から選ばれて豊津藩の藩校「育徳館」に留学した優秀な少年だったのです。「育徳館」は現在、福岡県立育徳館中学校・高校として、藩校の精神と伝統を受け継いで、佐賀清和と同じく、中高一貫の教育が実践されています。
果たして、長正少年は遠く故郷を離れて、黙々と学問、武道に励む毎日でしたが、ふと、ふるさとが恋しくなったのか、母親に「食事がまずくて、ひもじい。会津の干し柿が食べたい」と、つい甘えと無心の手紙を書き送ったのです。しかし、母からの返事は、それはそれは厳しいものでした。
「会津の武士の子が食べ物のことをあれこれ言い、柿を送ってくれとは見下げ果てた根性。再びこのようなことを言ってよこすなら、お前は萱野権兵衛の子ではありません」
この、厳しい母からの叱責(しっせき)の手紙を、同じく故郷を離れて文武に励む仲間たちに知られ、揶揄(やゆ)されるはめに。長正少年は弱音を吐いた自分を恥じ入り、「おれは弱虫、会津の誇りを傷つけた」と、自ら命を絶ったというのです。食べ物への不満など会津藩の子どもたちに教えられた『什(じゅう)の掟』違反。「ならぬものは、ならぬものです」。つまり理屈抜きで〝ダメなものはダメ〟。食事に不平を言うなど、それほどに恥ずかしいことだったのです。
令和の時代に、こんな話は「信じらんない」のひとことで片づけられそうですが、豊津町や育徳館中学校・高校では、郡長正への敬愛を込めて、このエピソードは今に語り継がれているそうです。確かに自ら命を絶つなど絶対にいけませんが、学びがあるからだと思うのです。
誇り、信念、志。そして、やさしさ、たくましさ、思いやり・・・。
理事長 富吉賢太郎