清和の窓から
No.50 人権同和教育講演要旨(上)
人権とは勇気の問題。勇気とは、言わなければいけないことを言うこと。言ってはいけないことを言わないこと。また、しなければいけないことをすること、してはいけないことをしないこと。
人権同和教育講演で紹介したコラムのいくつかを紹介します。じっくり読んで、さらに思いを深めてください。
◇津田治子の碑◇
「苦しみの きはまるときに しあはせの きはまるらしも かたじけなけれ」。アララギ派の歌人、津田治子が詠んだ一首。この歌碑が唐津市・呼子の国民宿舎「呼子ロッジ」の岬にある。
光る海。朝市のざわめき。さわやかな風が抜けていく“水光・呼子”はこの季節が一番いい。だが、波静かなまばゆい玄界灘を望んで立つ黒みかげの歌碑からは、そんな心穏やかさとは違い、ハンセン病という言い知れない苦悩と、世間から隔離され続けた哀しさが迫ってくる。
津田治子は明治44年、ここ呼子で生まれた。幼くしてハンセン病と診断されるが慈悲深い父親の愛に包まれ育っていく。しかし、18歳で親元を離れ熊本の療養所へ。生きる望みも閉ざされそうな境遇の中で、ずっと安らぐことのない療養生活を強いられる。
理不尽で過酷な差別。ハンセン病患者に対する国の強制隔離政策を違憲として厳しく断罪した国家賠償請求の熊本地裁判決で、多くの国民が原告団の全面勝訴という画期的な判決を感激の中で受け止めたのだが、今なお関係者の宿恨は晴らせないでいる。
法律の名の下に、なぜこうも長い間、人権無視の隔離政策が続いてきたのか、52歳で生涯を閉じた津田治子は「生き残ることは死ぬことよりも恐ろしいことだった」と、言い残している。人間回復への道の何と険しいことか―。
◇法律の残酷◇
わが国のハンセン病に関する最初の法律「癩予防ニ関スル件」は1907(明治40)年に制定、2年後に施行された。関係者を苦しめた隔離政策はこの時から始まった。百年以上も前の事である。
熊本の「菊池恵楓園」が開園したのもこの時である。加藤清正の菩提寺として知られる本妙寺周辺に野宿を余儀なくされていた27人が収容されたのが始まりという。ほかに青森、東京、大阪、香川にも療養所が建てられたが、療養所とは名ばかりで入所者は一日中監視下に置かれたのである。
ここでは日本銀行券、つまり通貨、お金は使うことができなかった。患者の所持金や家族からの送金はすべて“保管金”として提出させられ、代わりに園内だけで通用する「園券」が渡された。らい菌が付いたお金の流通を避けるという理由もひどいが、入所者が療養所以外では生きていけないようにする逃走防止が本当の目的だったという
そんな絶望的な療養所生活の中で1926年、恵楓園に入所者自治会が結成されたが、その80年の軌跡をたどる記念誌『壁をこえて』を読んだ。高齢になった入所者たちが力を合わせ、最後の記念誌になるだろうという思いを込めて編集されたものだ。
入所者の過酷な生活は療養所を取り囲むコンクリートの「壁」に象徴される。入所者と世間を隔てた高い「壁」。今は取り壊されているが、かつては壁の外を見る小さな“のぞき穴”があったという。断ちがたい望郷の思いが厚い壁に穴を開けたのだという。手に重いこの記念誌「壁を越えて」の「重さ」は、長年にわたって社会から遠ざけられた人たちの歴史の「重さ」であろう。
◇入江信さんと国賠訴訟と藤本事件◇
2001年5月10日。ハンセン病元患者らが訴えていた国家賠償請求訴訟の熊本地裁判決を明日に控えたその日、熊本の国立療養所「菊池恵楓園」で暮らす県出身の井上強さんに電話をかけた。「いよいよ明日判決ですね」。そう呼びかけたら井上さんは「私は国賠には入っていないんです」。シベリア抑留中に発病。復員と同時に強制入院させられて以来50年に及ぶ療養所生活。「国の法律で自分の人生は踏みにじられた」と言っていた井上さんが、どうして訴訟に加わらなかったのか!
「私にはやらなければならないことがある。時間がないんです」。齢80の坂を越えようとしていた井上さんが、やらなければいけないこととは―。「無実を訴えながら死んでいった藤本松夫という男の無念を晴らしてやりたいんです」という言葉に私は体の震えが止まらなかった。自分のことより友のことを。そんな奇特な人がいるのだ。
ハンセン病というだけで裁判は地裁法廷ではなく療養所内の特別法廷で行われた「藤本事件」。十分な弁護もしてもらえず初公判からたった4回の公判審理で死刑判決。そして1926年9月14日、再審請求中に処刑された、その青年藤本松夫さんは井上さんと療養所で同室だったという。
ハンセン病への偏見がもたらした冤罪の疑いが濃いと今、日弁連が関心を示しているこの事件。井上さんが国賠訴訟に加わらなかったのは、たった一人の友人の無念を晴らすためなのだ。マスコミもまったく触れてこなかったこの「藤本事件」。自分のことより友人のために余生をささげようとしている人の前に言葉もない。
理事長 富吉賢太郎
2021.11.09